「オーパの幸福実現党応援宣言!」:今のままでは、愛する人も守れない。ひとたび隣国からミサイルを放たれたら、誰を守ることもかないません。この国と国民を守るために、北朝鮮とどう向き合うか。200発以上のミサイルを日本に照準を合わせ、核の準備まで進めている。そんな国に、常識は通用しません。打ち込まれてからでは遅いのです。早急に防衛体制を築き、核・ミサイルを阻止しなければ。憲法9条を見直し、真の平和を手にしたい。幸福実現党は、国民の生命・安全・財産を守ります。

幸福実現党は「未来を創る」新しい政党です。幸福実現党は、「未来をつくる」という「力強い志」と「新しい発想」で「自由」「平和」「繁栄」という理想を実現する確かな「未来ビジョン」政策があります。皆様方からの幸福実現党への熱いご支援を心からお願い申し上げます。

【幸福実現党の目指すもの・幸福実現党の主要政策・幸福実現党の8つの提言】

 ~『オーパの幸福実現党応援宣言!』においでくださって、ありがとうございます。~

【幸福実現党の目指すもの】
                         幸福実現党創立者 大川隆法 2009年6月30日

幸福実現党創立者・大川隆法総裁HPへ この国の政治に一本、精神的主柱を立てたい。
これが私のかねてからの願いである。
精神的主柱がなければ、国家は漂流し、無告の民は、不幸のどん底へと突き落とされる。
この国の国民の未来を照らす光となりたい。
暗黒の夜に、不安におののいている世界の人々への、灯台の光となりたい。

国を豊かにし、邪悪なるものに負けない、不滅の正義をうち立てたい。
人々を真なる幸福の実現へと導いていきたい。
この国に生まれ、この時代に生まれてよかったと、人々が心の底から喜べるような世界を創りたい。
ユートピア創りの戦いは、まだ始まったばかりである。
しかし、この戦いに終わりはない。
果てしない未来へ、はるかなる無限遠点を目指して、私たち(幸福実現党)の戦いは続いていくだろう。

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戦後70年 亡き戦友に捧げる祈り

戦後70年 亡き戦友に捧げる祈り

幸福の科学・Voiceeから転載

この記事は隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第210号より転載し、編集を加えたものです。

雲の彼方に

「先に逝った戦友たちよ。今から俺も、そこに行くぞ」

1945年7月25日。当時19歳だった私は、「隼(はやぶさ)」の愛称を持つ陸軍の一式戦闘機に乗り込み、中国大陸の上空を飛んでいました。

振り向けば、運命を共にする5機の遼機(りょうき)が翼を連ねて続いています。

見渡す大空は透き通るように青く、雲は眼下を流れていて、いつまでもどこまでも飛んでいけそうな錯覚すら覚えていました。

1926年3月、私は鹿児島市郊外の村に生まれました。材木商を営む父と、浄土真宗を篤く信仰する母、弟と妹の5人家族でした。親戚には、陸軍士官学校を卒業し、青年将校として活躍する叔父がいました。

「お前は軍に入って、お国にご奉公してはどうだ」

叔父の一言をきっかけに、小学校5年生で軍人の道を志した私は、大東亜(だいとうあ)戦争開戦翌年の1942年10月、16歳で東京の陸軍航空学校に入校しました。

当時の日本は、国家存続の生命線である石油の輸入を、アメリカやイギリスなどの国々から禁止されていました。

このままでは国家が〝干上がって”しまう。外交交渉でも打開の見込みはない。もはや、打って出るほかはない――。そんな危機感が、当時の共通認識でした。

私も「お国のために力を尽くそう」と意気込んで入校し、戦闘機操縦の練習に励みました。その後、大津と宇都宮にある訓練学校に進み、卒業後は中国の太原(たいげん)(※)の部隊に配属されました。
※太原 中国北西部にある街。当時、アメリカ軍や中国共産党の八路軍などとの間で、激しい戦闘が行われていた。

迫る本土侵攻

開戦当初の勢いとはうって変わり、42年6月のミッドウェー海戦(※1)以降、日本軍は制海権(せいかいけん)を失い、サイパン島の戦い(※2)、マリアナ沖海戦(※3)と立て続けに敗北。戦況は悪化の一途をたどっていました。

44年11月には南洋・パラオのペリリュー島が、翌45年3月には硫黄島が陥落(かんらく)しました。重要な拠点を次々と手に入れたアメリカ軍は、沖縄近海へと集結しつつあり、本土侵攻が焦眉(しょうび)の急となっていました。

何としても、日本の国土を防衛する――。

後世、議論を呼ぶ特攻は、このような情勢下で始まっていきました。

「アメリカ軍は、日本軍を上回る性能の戦闘機や戦艦を配備している。特攻で飛び立っても、敵艦船にたどりつく前に大方が撃墜(げきつい)される」

私たち搭乗員にも、その程度の情報は入っていました。

「けれど、たとえ十分な戦果が期待できないからといって、何もせず手をこまねいているだけでは、どうやって祖国を守るというのか。搭乗員である自分には、わずかなりとも敵を食い止める可能性が残されている。元より軍人を志した以上、死は覚悟の上だ。この上は、自分を犠牲にしてでも、親兄弟を守り、日本を守るんだ!」

こんな気持ちを抱え、私は18歳で特攻隊に志願したのです。
※1 ミッドウェー海戦 1942年6月3日~5日に行われた海空戦。日本軍は大敗を喫し、戦局の主導権がアメリカに移る重大な転換点となった。

※2 サイパン島の戦い 1944年6月15日~7月6日に行われた離島戦。日本軍守備隊は全滅し、同年末からはB-29による本格的な日本本土空襲が始まることになった。

※3 マリアナ沖海戦 1944年6月19日~20日に行われた海空戦。日本軍は空母と搭載機に大損害を受け、惨敗に終わった。

出撃前夜の思い出

「お前は操縦の腕がいい。本当は一緒に行きたいが、後発の部隊を助け、後から来てくれ。俺は一足先に行くよ。靖国で会おう」

45年4月、上官からそう告げられ、私は5名の戦友とともに、7月25日に出撃することが決まりました。

「上官殿。ご武運をお祈りします」

6月、私は、自分も行動を共にするはずだった先発隊を見送った後、中国の天津にある基地で、1カ月にわたる過酷な訓練を受けました。

出撃前日の7月24日。訓練を終え、隊の戦友たちと夕食を終えたころ、誰かがポツリとつぶやきました。

「もうお前たちとも最後だね」

努めて明るく振る舞っていた戦友たちも、沈んだ表情を浮かべます。

「最後の晩だから、歌でも歌おうか」

その一言がきっかけとなって食堂の外に出て、日頃は歌わない唱歌を全員で口ずさむことになりました。時刻は、夜8時を過ぎていました。

「何を歌おうか」

「『我が師の恩』という歌詞がいいから、『仰げば尊し』にしようか」

衆目(しゅうもく)一致し、一斉に歌い始めます。

「仰げば尊し 我が師の恩 教の庭にも はや幾年」

父、母、小学校の先生、航空学校の教官……。目をつぶって歌えば、恩ある人、別れがたい人、懐かしい人の顔が、瞼(まぶた)の裏に次々と浮かんできます。いつしか歌声に、すすり泣きが混じってきました。

「今こそ別れめ いざさらば」

歌い終わると、全員が自然と日本のある東方に向かって整列し、目を閉じて一心に合掌しました。

「お父さん、お母さん。親孝行を何もできず、申し訳ありません。でも僕は、潔く散っていくことで、故郷を守り、日本を守ります。それをもって、親孝行の代わりとさせてください。懐かしい弟妹よ、残される両親を、よろしく頼むぞ……」

故郷から遠く離れていても、今の自分の心情は、距離を超えて伝わっていく――。そんな確信めいた思いがありました。

しばらくして目を開けると、満天の星が広がっているはずの中国大陸の夜空が、ぼやけていたのを覚えています。

突然の「敗戦」

翌7月25日。

「靖国で会おう」「武運を祈る」

戦友の肩を強く叩き、手を堅く握り合って、私は天津の基地を飛び立ちました。目標は沖縄近海に浮かぶ敵艦船。最後の機体整備を行う鹿児島の知覧(ちらん)基地めがけ、奉天(ほうてん)、朝鮮半島の平壌(へいじょう)へと飛んでいきました。

搭乗した機体は旧型で、途中、何度も故障し、そのたびに経由地で応急整備を受けなくてはなりませんでした。思うに任せない状況にやきもきしつつも、頭のなかにあったのは「いかにして、『敵艦船突入』という命令を全うするか」という一念ばかりでした。

そして8月15日。私はその日を、幾度目かの機体整備のために滞在していた平壌の基地で迎えたのです。

「昼に重大なラジオ放送がある。全員集合して聞くように」

朝方、伝達がなされました。

「ラジオで重大な放送とは……。一体何だろうか」

正午、ラジオの前に基地の全員が整列するなか、放送が始まりました。

「堪え難きを堪え 忍び難きを忍び 以て万世の為に太平を開かむと欲す……」

終戦を告げる玉音(ぎょくおん)放送でした。私はにわかには信じられませんでした。

「我々の受けた任務は、まだ終わっていない! せめて、参謀のいる知覧までは行こう」

周囲の制止を振り切って大邱(※1)まで飛びましたが、進駐(しんちゅう)してきたアメリカ軍に拘束され、大田(たいでん)(※2)で抑留(よくりゅう)の身となりました。

「敗戦」の二文字が、現実感と虚脱感を伴って私に迫ってきました。
※1 大邱 朝鮮半島東南部の街。

※2 大田 朝鮮半島中西部の街。

変わってしまった祖国

2カ月後の10月15日、私は山口県の仙崎(せんざき)港に降り立ち、復員しました。

満員の汽車を乗り継ぎ、鹿児島に戻ると、そこに広がっていたのは空襲で焼け野原になった故郷の姿でした。

「家は大丈夫だろうか。父は、母はどこに……?」

不安に駆られつつ家路を急ぐと、家族は戦災を逃れて無事でした。

生還を喜び合ったのもつかの間、衣食住に事欠く環境のなかを、何とか生き抜く日々が始まりました。食料を求めて方々を走り回る傍ら、材木商の父を手伝い、復興のための資材を提供し続ける毎日。

それでも終戦から3、4年が経つと、生活はある程度の落ち着きを取り戻していきました。

思い返せば、ちょうどそのころからだったでしょうか。大東亜戦争が「侵略」「ファシズム」、特攻に散った戦友が「犬死に」「無駄死に」、特攻からの生還者が「特攻崩(くず)れ」「やっせんぼ(薩摩弁で「卑怯者」)」と呼ばれるようになっていることに気付いたのです。

「自分の命や青春をなげうった純粋な若者に、何ということを……」

内心、幾度となく地団駄(じだんだ)を踏みました。

しかし、先の大戦に関する世間の風当たりは、強まるばかり。自然と、「自分が特攻隊の一員だった」ということに口をつぐみ、世間から身を潜めて生きるようになりました。

「命を懸けて守ろうとした祖国の、こんな姿は見たくなかった……。自分が生き残ったのは間違いだったか。懐かしき戦友と、一緒に逝けばよかったのか……」

次第に、先に散った戦友に、負い目のようなものを感じるようになりました。

 「せめて自分だけは、寄り添っていこう」

やがて、夜毎(よごと)の夢に戦友たちが出てくるようになったのです。

私は戦友と編隊を組んで空を飛んでいます。すると、戦友が風防ガラスを開けて手招きをします。あるいは、敬礼しながら「早く来いよ」と呼びかけます――。

うなされる日々が続きました。

そんな折、地元の新聞で「知覧町に、法隆寺の国宝『夢違観音(ゆめちがいかんのん)』の複製が、許可を得て建立される」という記事を見ました。

「これはもしかしたら、英霊を慰める好機かもしれん」

私は知覧町に、特攻で散った英霊の慰霊祭を開催するよう持ちかけました。しかし、「軍国主義の復活につながるのでは」と、返事は保留になってしまったのです。

命にかえても祖国を守ろうとした戦友たちの顔が思い浮かび、私はいてもたってもいられなくなりました。

私は、52年12月に見合い結婚した妻が、飲食店を経営するようになったのを機に、父の仕事の手伝いから離れ、慰霊祭開催に奔走しました。そして、55年7月、慰霊祭の独自開催にこぎつけました。

第一回の参列者はわずか50、60人だったものの、100人、200人、500人と、参列者は回を重ねるごとに増加。70年代には、1,000人近くが参列する全国有数規模の慰霊祭になり、主催も知覧町に変わりました。しかし、どれほど慰霊を重ねても、戦友たちの夢にうなされる夜は続きました。

「君らの気持ちは、俺が一番よくわかる。せめて自分だけは、英霊たちに寄り添って生きていこう」

そう思って、戦後を生きてきました。気づけば暦(こよみ)も「昭和」から「平成」へと変わり、齢(よわい)も80を超え、あの大戦は「教科書のなかの出来事」へと変わっていました。

訪れた「慈悲(じひ)」

「そろそろ、諸君の元に還(かえ)ります。お待たせしました……」

そんな思いが、浮かんでは消える日々を送っていた2014年春、転機が訪れました。

「おじさま。今、大川隆法先生という偉い神様が生まれてるんですよ。先の大戦についても『日本には大義があった』と説いてらっしゃいます」

同じ鹿児島に住む妻の友人、末原裕子さんから、そう伺いました。

「偉い神様なら、お参りしたり勉強したりすれば、英霊たちの冥福(めいふく)につながるかもしれん」

そう思った私は、その年の4月9日に幸福の科学に入会し、教えを学び始めました。そして5月28日には、末原さんに連れられて、大分県にある湯布院正心館(※1)に参拝することになりました。小高い山の上に建つ正心館に到着したのは、その日の夕方のことでした。

「御本尊に、まずはご挨拶しよう」

礼拝堂に向かい、前方の席に腰掛けると、お堂の中央に鎮座(ちんざ)されている御本尊が、穏やかなお顔で微笑んでいるように感じられます。

「これは、何かとてもありがたいことが起きるかもしれん」

私は、おもむろに手を合わせ、静かに目を閉じました。すると――。

「もう苦しまなくていいんだよ。幸福をつかみなさい」

胸の奥に、〝お告げ”のようなものが大きく響き渡ります。驚いて目を開けると、夕焼けの光を背にして輝く御本尊が、「おいで、おいで」と手招きしているように見えました。

その瞬間、それまで常に自分の周りにいると感じていた戦友たちの魂が、天に向かって一斉に昇っていったような感覚がありました。

「これが、偉い神様のお力か……。戦友たちもようやっと浮かばれる。素晴らしいお祈りをさせてもらった……」

何十年にもわたって寺社・仏閣に詣(もう)で、お参りを重ねてきましたが、こんな体験をしたことはついぞありませんでした。

「エル・カンターレ(※2)とは、慈悲に溢れた、何と素晴らしい神様か」

その日を境に、夢にうなされる夜は終わったのです。
※1 湯布院正心館 大分県由布市にある幸福の科学の精舎(研修・礼拝施設。)

※2 エル・カンターレ 幸福の科学の信仰の対象であり、イエスが父と呼び、ムハンマドがアッラーと呼んだ存在。

戦後70年目の祈り

それから1年たった15年5月3日。私は、知覧で行われた61回目の慰霊祭に参列し、出席者を代表して慰霊の言葉を述べました。

するとその晩、1年ぶりに夢を見ました。それは、20人ばかりで肩を組み、破顔大笑(はがんたいしょう)しながら軍歌を歌う、亡き戦友たちの姿でした。

「そうか……。君らは今、天国におるのだな。本当によかった……」

長かった「戦後」というものが、ようやく一区切りついた――。そんな気持ちが去来していました。

あの大戦が終わってから、今年で70年目を迎えます。戦後空前の繁栄を遂げた日本にあって、先の大戦については、否定的な見方が多くあるように見受けられます。

しかし、少なくとも私たちは、大東亜戦争当時、「このままでは国が滅びる」という危機感を共有し、文字通り身命(しんみょう)を賭(と)して外敵と戦いました。武運拙(つたな)く敗れはしたものの、大和魂・武士道にもとるような卑怯(ひきょう)な振る舞いは、一切してこなかったつもりです。そんな我々の思いを汲(く)んでか、近年、「『日本は侵略国家だった』という見方は、本当に適切なのか」と、改めて過去を見つめ直す流れも出てきています。

なかでも幸福の科学の大川隆法総裁は、その霊的なお力を用いて東條英機(ひでき)首相や松井石根(いわね)大将などの霊言(れいげん)を行い、この国の宿唖(しゅくあ)である「自虐史観」を根本から治療しようとされています。また、そのご著作を通じて、「先の大戦の意義を、もう一度見直そう」と訴えておられます。

本当に、ありがたいことだと思います。

身も命も惜しまず、この国を守って散った英霊たちへ。

私は、この年にして、素晴らしい宗教に巡り合うことができました。この教えは、「日本の希望」です。遅ればせながら私は、この教えに沿って修養(しゅうよう)を重ね、人格を陶冶(とうや)し、いずれ懐かしき君たちの元に還ります。どうかそれまで、愛する日本を見守ってください。

そう切に願い、戦後70年を生きた元特攻隊員の話の結びといたします。

この記事は隔月発刊の機関誌「ザ・伝道」第210号より転載し、編集を加えたものです




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